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会員の声

湘南の一隅に蒔かれた一粒の種が

茅ヶ崎方式英語会本校 第1期会員
元・日刊工業新聞 論説委員長・経済評論家  松本 明男


 1981年4月、東海道茅ヶ崎駅に近い貸しビルの一室。 市民レベルの学習サークルである茅ヶ崎自由大学の特別コースとして英語学習が始まった。集まった仲間は11人。
 「一粒の種」のように、湘南の地の一隅で育まれたこの「小さな実験的学習」がいまや茅ヶ崎方式英語会として全日本規模へと輪を広げ、グローバル化時代における国際コミュニケーション促進に役立っている姿をみると感慨無量のものがあります。開講に当って創始者の松山薫さんは「英語で外国人と会話をする場合、挨拶や道案内など日常会話にとどまらず、文化、社会、政治、経済や世界観について対話し、ディベートも出来るような内容のあるコミュニケーションを身につけて欲しい」といわれた。それには国際ニュースでひんぱんに使われる基本単語1000語を暗記した上で、native speakerが話す国際ニュースを繰り返し聞く。シャワーを浴びるように神経を集中し、まず、「聴く力」を培う。幼児が耳から言葉を覚え、話せるようになるのと同じ理屈である。次に基本単語を3000語に増やし、聴く力を磨くことで「対話する力」を伸ばしてゆく。この方法は普遍的で、合理的な学習と感じた。中学校から大学まで10年間も英語教育を受けながら満足な会話も出来ない人が多い。そのひとりであった私にとって、この教室は刺激的な出会いだった。草創期の教室は未知の体験への不安と熱気があふれていた。ガリ版ずりの教材はボロ ボ ロになり、テープはスリ切れるまで聞く。グループ学習で苦手なところを教えあう。親睦の飲みニケーションも盛んだった。当時、現役の新聞記者だった私は、翌82年のシナイ半島返還取材をはじめ、ベルサイユ(82年)、ウィリアムスバーグ(83年)、ロンドン(84年)のサミットや第2パナマ運河計画交渉など多くの海外取材に携わったが、茅ヶ崎方式で学んだ4000語のsolid baseが取材やコミュニケーションを図る上で、どれ程役立ったことか。茅ヶ崎方式は私にとって大事な知的財産だといえよう。

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